韓国ドラマ「성균관스캔들成均館スキャンダル」その4

アンニョンハセヨ
 以前このブログで、何回かにわたってドラマ「成均館スキャンダル」について述べたことがある。その時は主人公の「チャルグムサインジョ:水も滴る四人組」と呼ばれる若者を中心として紹介してが、そこで書き残したことが気にかかっている。それはキリスト教(カトリック教)のことである。
「成均館スキャンダル」では国王正祖と丁若鏞の間の議論で、丁若鏞は夫婦別有の儒教倫理では認められない男装学生キム・ユニ(キム・ユンシク)を擁護する立場から、西学の男女平等論を主張している。
18世紀後半、「成均館スキャンダル」の舞台となった朝鮮王朝第22代国王正祖とその前国王英祖の時代は、この時期は朝鮮王朝の中でも、経済、社会、文化の領域において大いに変化している。経済の面では、生産力が増大し、商品貨幣経済が進展している。文化の面では、実学思想の隆盛、宗教ではキリスト教(カトリック教)の浸透などがあげられる。
韓国へのキリスト教の伝来は16世紀中国や日本を経由して行われたが、正祖の時代には韓国では宣教師が不在の状態でいわば自主的な形でキリスト教が信仰されはじめる。そして韓国で初めて李承薫がキリスト教徒としての洗礼を受け、中国人神父周文謨が韓国にひそかに入国して宣教活動をするなど、両班層や庶民層にキリスト教が広まった。正祖はまだ西教あるいは天主教(宗教としてのキリスト教)と西学あるいは天主学(中国を訪れた宣教師など西洋人によってもたらされ、中国語訳されたその時代の西洋の思想や技術に関する知識)が区別され、西教は認めなかったものの、西学を許容する雰囲気はあった。
正祖が亡くなり純祖の代になるとすぐ1801年に辛酉教難がおこって西教(キリスト教)が弾圧され、その後は西教だけではなく、西学までもが厳しく禁止された。
そのことは、韓国ドラマでは少し古いものであるが、「朝鮮王朝五百年シリーズ第10話破門 正祖大王」で詳しく描かれている。
身分差別や男女差別を否定する思想は近代ヒューマニズム、市民思想において出現したもので、必ずしもキリスト教が政治的なあるいは現実的な身分制度の解放や女性解放を主張しているわけではないが、伝統的な社会ではそのように捉えられる傾向があったと考えられているのかもしれない。
ところで西学(西洋の学問)と西教(カトリック教)の区別という点からすると、日本では韓国よりも早く江戸時代の初めにキリスト教(カトリック教)を禁止したが、西洋の学問を蘭学として許容した。それは明治期に和魂洋才といわれるものと繋がりある意味では、日本の近代化に大きな意味を与えたということもできる。それに対して西学を禁止した韓国では、朝鮮の近代化への対応を遅らせることになったともいわれる。
日本の蘭学とはあくまでも医学や軍事などに関わる技術が中心であり、哲学は含まれない。ところが、韓国では西学が両班のなかでも南人派を中心とした学者層に受容され、農学、工学、医学、建築学などの自然科学から、経済学などの社会科学、そして哲学の領域にまで広く関連していたようで、特に哲学などを媒介とすると学問と宗教は必ずしも明確には区別されなかったようにも思える。この点は日本と韓国のキリスト教の受容の差異とも考えられる。
国王正祖を描いた韓国ドラマとしては、今でもNHKで放送されている「イ・サン」が有名である。正祖は何度も暗殺されかかり、国王になるにためにも政治的に厳しい状況に置かれていたようであるが、有能な側近に恵まれて困難を乗り切った。実際には蔡済恭が生涯の同伴者といえようが、初期の代表的人物としては洪国栄、後期の代表的人物としては丁若鏞がドラマティックで興味深い。洪国栄を扱った韓国ドラマとしては「洪国栄」があり、丁若鏞を扱った韓国ドラマとしては「牧民心書」がある。
それらは「イ・サン」とは違った視点から、眺めることができて、興味深い。
丁若鏞は書き残した書物も多く、韓国の代表的なお固い学者政治家として研究されているが、最近「조선추리활극 정야용 チョン・ヤギョン李氏朝鮮王朝の事件簿」という探偵丁若鏞を主人公にした現代韓国を風刺したともみえる歴史ドラマが作られていて、柔らかい大衆的な丁若鏞人気があるということも知った。
ト マンナヨ

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나 항상 그대를 私はいつも あなたのことを

ヨロブン アンニョンハセヨ
이선희李仙姫イ・ソニの歌う名曲のなかで、ここでいくつか紹介したい曲がある。その一つが1988年にヒットした「나 항상 그대를 私はいつも あなたのことを」(김민정 作詞, 송시현 作曲)である。송시현は1965年生まれで、作曲だけでなく、現在ではミュージカル演出などを手がけている。
「光あせた古い写真の中のあなたの姿・・」という歌詞の一節からもわかるように、二人の関係は比較的長くまた親しく続いていたようにみえる。この歌は、若者の歌というよりは、中高年の歌でもあるといえよう。この曲は前に紹介した「J에게 Jエゲ」と較べると、4年しかたってはいないが、楽曲のジャンル(ブルース・ロック)やテンポそして歌い方など、しっとりと落ち着いたものになっている。僕としてはどちらかといえば、「나 항상 그대를」がいい。
この曲は発売当時も人気があったが、2002年の韓国映画「가운의영광 家運の栄光」(韓国ドラマ「가문의영광 家門の栄光」とは違う)でもost(挿入歌)として、김정은キム・ジョンウンが歌って、再び話題となった。
また、この歌は2009年노무현盧武鉉ノ・ムヒョン前韓国大統領を追悼するためにも歌われた。

나 항상 그대를 그리워하는데 맘처럼 가까울수 없어
오늘도 빛바랜 낡은 사진 속에 그대 모습 그리워하네
나 항상 그대를 보고파하는데 그대는 어디로 떠났나
다정한 그 모습 눈물로 여울져 그대여 내게 돌아와요
돌아와 그대 내게 돌아와 나 온통 그대 생각뿐이야
불같은 나의 사랑 피할순 없어 그대여 내게 돌아와요
돌아와 그대 내게 돌아와 나 온통 그대 생각뿐이야
불같은 나의 사랑 피할순 없어 그대여 내게 돌아와요

私はいつもあなたを懐かしがっているが 心のままに近づくことはできない
今日も光あせた古い写真の中のあなたの姿を懐かしむ
私はいつもあなたと会いたいと思っているが
あなたはどこへ行ってしまったのか
愛情深いその姿は 涙でやつれてしまった あなた 私のところに帰ってきて
帰ってきて あなた 私のところに帰ってきて 私はすっかりあなたを思うだけ
燃えるような私の愛を避けることはできないわ あなた 私のこところに帰ってきて
帰ってきて あなた 私のところに帰ってきて 私はすっかりあなたを思うだけ
燃えるような私の愛を避けることはできないわ あなた 私のこところに帰ってきて



ト マンナヨ

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J에게 Jに

ヨロブン、アンニョンハセヨ
이선희李仙姫イ・ソニは1964年忠清南道保寧で生まれ、仁川専門大学を卒業している。1984年7月、在学中に彼女の先輩男性임성균イム・ソンギュンとのデュエット「四幕五場」で第五回MBC강변가요제 川辺歌謡祭に出場し、「J에게 Jエゲ」(이세건作詞・作曲)を歌って、大賞を受賞した。「Jエゲ」は、後にソロ歌手としてデビューしたイ・ソニを代表する曲になった。
川辺歌謡祭というのは、今では「冬ソナ」のロケ地として有名になった남이ナミ島で開催されていて、대학가요제 大学歌謡祭と並んで、プロを目指す学生アマチュアバンドなどが出場する、TV局が主催する番組で、1980年頃から作られている。それらの番組からは노사연ノ・サヨン、심수봉シム・スボンなどの歌手もでている。
1984年夏、僕は韓国大邱に滞在していた。もちろんその時は川辺歌謡祭も知らず、「Jエゲ」がその音楽祭で受賞したことも知らなかったが、この曲が毎日、どこからかたえず聞こえてきたことを覚えている。
彼女の歌唱力には驚くべきものがある。その声はどんなに叫ぶように歌っても、柔らかく明るく澄んでいる。ある人はイ・ソニを女趙容弼ともいう。また、ある人は「世の中を変えた歌」の一つともいう。
歌唱力もさることながら、この歌詞はその当時の若者(女性だけではなく男性を含めて)の淡い恋心をさわやかに歌い上げている。この曲はジャンルとしてはバラードに分類されているが、フォークソングのような素朴さがある。イ・ソニは、とりわけ60年代生まれの韓国人の間で人気が高く、その世代の生き方、考え方のシンボルとなっているようだ。
最初に川辺歌謡祭の映像をみて、その後の彼女の映像をみていくと、彼女の飾らない素朴な少女の姿から凛々しい大人の女性、頼れるオンニ(お姉さん)への成長を見ることができる。それはある意味では現代韓国社会史の一段面を見るようでもある。
 
J에게
J 스치는 바람에 J 그대 모습 보이면 난 오늘도 조용히 그댈 그리워 하네
J 지난밤 꿈속에 J 만났던 모습은 내 가슴 속 깊이 여울져 남아있네
J 아름다운 여름날이 멀리 사라졌다 해도 
J 나의 사랑은 아직도 변함 없는데
J 난 너를 못 잊어 J 난 너를 사랑해 J 우리가 걸었던 J 추억의 그 길을 
난 이밤도 쓸쓸히 쓸쓸히 걷고 있네 
J 아름다운 여름날이 멀리 사라졌다 해도 J 나의 사랑은 아직도 변함 없는데 
J 난 너를 못 잊어 J 난 너를 사랑해 J 우리가 걸었던 J 추억의 그 길을 
난 이밤도 쓸쓸히 쓸쓸히 걷고 있네 쓸쓸히 걷고 있네
Jに
J、吹き抜ける風に J、君の姿をみれば 私は今日も静かに 君を懐かしむ
J、昨夜の夢の中で J、見た君の姿は 私の心に深くひっそりと残っている
J、美しい夏の日が遠ざかっていっても J、私の愛は今でもかわらない
J、私は君を忘れられない J、私は君を愛している 
J、私達が歩いた J、追憶の道を 私は今夜もさびしく歩いている
J、私は君を忘れられない J、私は君を愛している 
J、私達が歩いた J、追憶の道を 私は今夜もさびしく歩いている


ト マンナヨ

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「비내리는 영동교」雨降る永東橋    「신사동 그사람」新沙洞その人

ヨロブン アンニョンハセヨ

 「調子のよいトロットが韓国人の情緒に根を下ろすのに決定的な人物として、周炫美の登場があった。トロットの女王、李美子の別名が<エレジーの女王>となっていることからもわかるように、以前のトロットは悲しさの情緒を強調した。しかし周炫美の登場と一緒にトロットは軽い感じの愉快で都市的で、軽快な音楽に変化した。」(손민정ソン・ミンジョン『트로트의 정치학 トロットの政治学』173ページ)
 戦前に作られ、戦後は李美子によって集大成された感のある韓国の古典的トロット(短調ヨナヌキ五音階、四分の二拍子あるいは四分の四拍子)は、趙容弼によって曲調は8ビートのゴーゴー(ポップトロット)になったが、それでも歌詞はまだ「恨」多いものであった。都市の歌った歌手としては、배호ペ・ホなどがいるが、その歌も決して明るいものではなかった。それが80年代後半周炫美によってはじめて、曲調も長調となり、歌詞も軽い感じの、普通の人々の日常的な、でも密かな出来事をあつかっている。
 このことによって、トロットは単なる過去の歌ではなく、また今時の歌として回復したということができよう。ただし、かつてのように国民的な支持をえるというものではなく、比較的高年齢層を受容者層とした大衆歌謡のジャンルの一つとなったといえる。
 ちょうど、日本でも戦前に作られた演歌が、現在でも曲調や歌詞を変えて、毎年新しい歌や歌手が出ていて、それなりに人気を得て、演歌は大衆音楽の一つのジャンルとなっていることと似ている。
 「トロット」や「演歌」は、時代によって変化し、無くならないでずって続いている。もちろんその定義如何によっては、それぞれが別のジャンルとすることもできるが、ここでは議論する余裕はない。
 주현미 周炫美は中国人の父と韓国人の母の間で、1961年全羅南道光州で生まれた。1981年MBC第2回川辺歌謡祭に出演し、歌手活動をはじめる。中央大学薬学部を卒業して薬剤師の資格をもつ。薬剤師になるか歌手になるか迷ったという。1985年「비내리는 영동교 雨降る永東橋」で公式にデビューした。
 彼女のデビューした時期は、1980年代の後半である。この時期は韓国では経済的には1985年のプラザ合意以降の三低(原油安、ドル安、低金利)による経済好況と、政治的には1987年には6・27民主化宣言が行われ、政治的民主化が進み、また1986年にはアジア大会、1988年にはオリンピック大会がソウルで開催されている。
 その時代は拡大した中間層を中心としての比較的安定した明るい時代であった。大統領選挙に立候補した盧泰愚노태우氏のキャッチフレーズは「普通の人」であった。80年代大学歌謡祭や川辺歌謡祭出身の周炫美は、まさにこの時期にマッチした歌手ということができる。
出産と育児のため一時仕事を休んだ後、音楽活動に復帰しようとした彼女は、90年代初めに、소태지와아이들ソテジワアイドル(ラップやダンス音楽)、변진섭ビョン・ジンソプ(バラード音楽)らの出現により、彼らの影響が大きかったので、しばらく活動再開ができなかったという。
 ところで、「비내리는 영동교」と「신사동 그사람」の歌詞には少し差があるように思われる。「비내리는 영동교」では、期間ははっきりとはわからないがしばらく付き合って別れた「忘れようとしても忘れられない」相手に「未練未練未練」を感じているが、「신사동 그사람」ではたまたま一度だけ出会った相手との再会を淡い期待をもって待ってはいるものの、「未練」を感じるほどではない。
 最後に一言、永東橋はソウルの漢江に架かる橋の一つで、江南開発の初期である1973年に完成している。新沙洞はソウルの江南地区(漢江の南側)で狎鴎亭洞と並んで、高級なショッピング街やアパート群の立ち並ぶ地域であった。周の歌う「新沙洞その人」の「新沙洞」は、僕はずっと「永東橋」からもそう遠くはない江南にある「新沙洞」だとばかり思っていたが、そうではなく「新沙洞」は、ナイトクラブの名称で、実は江北(漢江の北側)にあるということを知って驚いたことがある。

<비내리는 영동교>
밤비내리는 영동교를 홀로 걷는 이마음 그사람은 모를거야 모르실거야
비에 젖어 슬픔에 젖어 눈물에 젖어 하염없이 걷고있네 밤비내리는 영동교
잊어야지 하면서도 못잊는것은 미련 미련 미련 때문인가봐
밤비내리는 영동교를 헤매도는 이마음 그사람은 모를거야 모르실거야
비에 젖어 슬픔에 젖어 아픔에 젖어 하염없이 헤매이네 밤비내리는 영동교
생각말자 하면서도 생각하는 건 미련 미련 미련 때문인가봐

雨降る 夜の永東橋を 一人歩く 私の心 あの人は知らないだろう
雨に濡れ 悲しみに濡れ 涙に濡れて あてもなく歩いている 雨降る 夜の永東橋
忘れなければと思っても 忘れられないのは 未練 未練 未練の せいだろううか
雨降る 夜の永東橋を さまよう 私の心 あの人は知らないだろう
雨に濡れ 悲しみに濡れ 痛みに濡れ あてもなく さまよう 雨降る 夜の永東橋
思わぬようにしようとしても 思ってしまうのは 未練 未練 未練の せいだろうか

신사동 그사람
희미한 불빛사이로 마주치는 그눈길 피할수없어
나도몰래 사랑을 느끼며 만났던 그사람
행여 오늘도 다시만날까 그날밤 그자리에 기다리는데
그사람 오지않고 나를 울리네
시간은 자정넘어 새벽으로 가는데
아 그날밤 만났던사람 나를 잊으셨나봐
희미한 불빛사이로 오고가는 그눈길 어쩔수없어
나도몰래 마음을 주면서 사랑한 그사람
오늘밤도 행여 만날까 그날밤 그자리에 마음 설레며
그사람 기다려도 오지를 않네
자정은 벌써 지나 새벽으로 가는데
아 내마음 가져간사람 신사동 그사람

微かな灯りに 合わせた視線 避けられず
私もいつの間にか愛を感じ 会ったその人
今日もまた会うかもしれないと その夜その場所で待つけれど
その人は来ないで 私を泣かせる 時間は過ぎ夜明けになるが
ああ その夜会った人 私を忘れたんですね

微かな灯りの間で 行き来した視線 どうすることもできず
私もいつの間にか心を許し 愛したその人
今夜ももしかして会うかもしれないと その夜その場所で心騒がせ
その人待っても来はしない 時間は過ぎて夜明けになるが
ああ 私の心を持って行った人 新沙洞のその人

ト マンナヨ

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친구여  友よ

アンニョンハセヨ

 この歌は1983年、하지영 ハ・ジヨンによる作詞、이호준 イ・ホジュンによる作曲で、조용필 チョ・ヨンピルによって歌われたものだ。

하지영 ハ・ジヨンは他にもいくつか趙容弼の歌を作詞しているし、이호준 イ・ホジュンは、1950年生まれで、鍵盤奏者として韓国で電子音楽導入期に活躍し、趙容弼の「그대 발길이 머무는 곳에 君の歩みがとどまるところへ」なども作曲している。

この趙容弼の曲はそれまでの「돌아와요 부산항에 帰れ釜山港へ」や「한 오백년 恨五百年」などの熱唱する曲とは異なり、静かに語りかけるような曲で、フォークソングのようでもあり、歌曲のようでもある。

この曲は、彼の音楽の幅の広さを示すものといえる。

韓国の民主化を叫んで学生運動が盛んだった80年代では、学生たちは昼は民衆歌謡を歌い、夜は趙容弼を歌ったといわれて、なるほど、日本でもかつて学生運動が盛んだった頃、デモや集会などでは「インターナショナル」や「国際学連の歌」が歌われたが、夜は高倉健のヤクザ映画を見て、「網走番外地」などを聞いていたことを思い出した。

 

꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름따라 흐르고 

친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

옛 일 생각이 날때마다 우리 잃어버린 정 찾아

친구여 꿈속에서 만날까 조용히 눈을 감네 

슬픔도 기쁨도 외로움도 함께 했지 부푼 꿈~을 안고 

내일을다짐하던 우리 굳센 약속 어디에 

꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름따라 흐르고 

친구여 모습은 어딜 갔나그리운 친구여

슬픔도 기쁨도 외로움도 함께 했지 부푼 꿈~을 안고 

내일을 다짐하던 우리 굳센 약속 어디에

꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름따라 흐르고 

친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

夢は空で眠り 追憶は雲にのって流れる 友よ どこへいった 懐かしい友よ 

昔を思い出すといつも われらの失った情を探して 友よ 夢の中で会おうか 静かに目をつむって 

悲しみも喜びも辛さも一緒だった 希望の夢を抱いて 明日を誓った 

われらの約束はどこに 夢は空で眠っていて 追憶は雲にのって流れる 

友よ どこへいったのか 懐かしい友よ

<日本語歌詞>

今 気づいたけれど あの頃の私は 燃えて 生きていたけど ただそれだけ

今 気づいたけれど あの頃はあなたが とても 臆病そうに 見えていたけど

時は流れて 私も年老いて あの時流した あなたの涙の 意味が 今  わかる

今 あなたは  どこに もう 逢えないけれど 悔やみ続けてきたよ 私が 若すぎた

夢に 生きる 私に 自分の影は 見えない 交わす言葉の棘に 気づかなかった

時は流れて 私も年老いて あの時流した あなたの涙の 意味が 今 わかる

友と呼べる人は あなたしか いないと 友よ あえて 言いたい 友よ 友よ


ト マンナヨ

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한 오백년  恨五百年

ヨロブン アンニョンハセヨ 

「한 오백년 ハノベンニョン 恨五百年」という曲は、韓国を代表する民謡の一つだ。

この曲は、江原道民謡の一つで、江原アリラン、旌善アリランの系譜をひくものだという。李成桂が高麗の国を滅ぼして李氏朝鮮王朝を打ち立てた時、江原道に逃れた高麗王朝の遺臣たちが李成桂に恨をもって歌ったものに由来するという。そして、この曲の題名は繰り返しの部分「한 오백년 살자는데・・」の「한 오백년」からきたものとされている。曲の調子は韓国の伝統的な音階の一つである메나리조メナリ調(慶尚道、江原道の民謡によく見られるミ・ラ・ドの三音が中心音となる伝統的な五音階)からできている。

ここで、この曲を取り上げたのは、80年に現代韓国の歌手趙容弼によって歌われたからである。彼は78年にTBCの特集番組で老人の歌う「恨五百年」を聞いて、感動したという。

趙容弼は、大麻草事件で謹慎処分を受けた70年代後半、韓国の伝統音楽の一つのパンソリの練習に打ち込んだ。そこで、音楽活動を再開してから、80年に伝統的な民謡「恨五百年」を歌った。また、彼は「江原道アリラン」も歌っている。

趙容弼が音楽活動の全盛期を迎えたのは80年代であるが、当時韓国は全斗煥大統領の時代であった。経済は成長し、中間階層が出現しつつあった時代で、かつての朴正熈軍事政権は崩壊したが、政治的な対立は続き、政権側による強権政治が行われていた時期だ。

「恨五百年」について、あるインタビューに答えて、趙容弼は次のようにいっている。

「今は恨という言葉はほとんど無くなっていますが、その当時、わが国民情緒の核心は恨でした。時代は80年代となっていますが、大衆の熱望とは異なり軍事政権続いていたでしょ。すべての人の心にいっそう恨が秘められていました。「恨五百年」や「미워미워미워 ミウォミウォミウォ(憎い憎い憎い)」(*趙容弼が歌った歌の題名)を通して、人々は息苦しく恐ろしい時代状況に対して、少しだけ「한풀이 ハンプリ」(*恨を解くこと)をしたのではないか。全斗煥大統領時代だからそのが反対に趙容弼の声や叫びをいっそうリアルなものにしたのだといえるでしょう。」(임진모「우리대중음악의 큰별들」2004年,109)

日本の植民地支配の時期、朝鮮総督府に働く良心的な日本人青年の葛藤を描いた、梶山季之の小説を原作として韓国で映画「族譜」(林権沢監督、1978年)が作られたが、その映画の中でこの「恨五百年」は非常に効果的に用いられている。このことは、韓国が日本の植民地支配を受けた時の韓国人の心情を、この歌によって象徴させている。

日本では1988年のNHK紅白歌合戦に趙容弼が出演し、「한 오백년 恨五百年」を歌っているし、僕は見ることができなかったが、2011年12月にテレビ朝日系列のドラマ「愛、命―新宿歌舞伎町駆け込み寺」では、在日韓国人役を演じた渡辺謙が、劇中で「恨五百年」を歌ったという。このことは、日本でもこの歌が韓国人を象徴する歌の一つとして知られるようになったということかもしれない。

 한 많은 이세상 야속한 님아 정을 두고 몸만 가니 눈물이 나네 

아무렴 그렇지 그렇구 말고 한 오백년 살자는데 웬 성화요

백사장 세모래밭에 칠성당을 모으고 임생겨 달라고 비나이다

아무렴 그렇지 그렇고 말고 한 오백년 살자는데 웬 성화요

청춘에 짓밟힌 애끓는 사랑 눈물을 흘리며 어디로 가나

아무렴 그렇지 그렇고 말고 한 오백년 살자는데 웬 성화요

한 많은 이 세상 냉정한 세상 동정심 없어서 나는 못살겠네

아무렴 그렇지 그렇고 말고 한 오백년 살자는데 웬 성화요

恨多きこの世 薄情な人よ 情を残して 体だけ逝ってしまって 涙が出る

ああ そうだよ そうだとも 恨み五百年生きようというのに どうしてもやりきれない

白砂の砂畑に七星壇を祀り あなたを生き返らせてと祈る 

ああ そうだよ そうだとも 恨み五百年生きようというのに どうしてもやりきれない

青春に踏みにじられた せつない愛 涙を流しながら 何処へ行くのか 

ああ そうだよ そうだとも 恨み五百年生きようというのに どうしてもやりきれない

恨多きこの世 冷たいこの世 思いやりがなくて わたしは生きられない 

ああ そうだよ そうだとも 恨み五百年生きようというのに どうしてもやりきれない

ト マンナヨ

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칠갑산   七甲山

 ヨロブン アンニョンハセヨ

「칠갑산 七甲山(チルガプサン)」という歌は、조운파 趙雲波チョ・ウンパ(1943年、부여 扶余生まれ、詩人、作詞家)が作詞だけではなく、伝統音楽を基にして作曲もしている。彼は純粋文学系の詩人として出発したが、大衆音楽の質を高めるという当時の思潮のなかで、同人の박건호 パク・コンホの勧めで、大衆音楽の作詞家となった。「大衆音楽を芸術に昇華させた先駆者」とも呼ばれている。また내고장노래만들기본부본부장 (私の故郷の歌作り本部本部長)を務めている。

歌手주병선(1964年、全羅南道여수 麗水生まれ)は、チュゲ芸術大学国楽科卒業している。学生時代からロックグループを結成して活動した。1988年MBC大学歌謡祭で金賞受賞。この歌は最初1978年に윤상일 ユン・サンイルが歌い、1989年に改めて주병선チュ・ビョンソンが歌った。ただし、当初はあまり売れなかったという。それが「主婦歌謡熱唱」という番組を通してまず女性たちの人気を得て、全国に広まった。

この歌は伝統音楽を踏まえた新民謡の系譜に属しているといえるものであるが、新民謡ではなく、国楽歌謡と呼ばれている。それはそれまでの新民謡が特別な集会や催しに演奏され、日常生活から遊離し、形式化していることへの憂慮でもあった。

この歌の題名となった七甲山は忠清南道青陽郡にある標高561mのそれほど高くはない山である。周りは緑の山々に囲まれ、自然環境に恵まれ、現在では道立公園に指定されている。しかし、特別な景勝地でもなく、有名な歴史的遺跡があるわけではない。七甲山のようなところは韓国でも、各地に存在する。今では公園も整備され、誰もが利用しやすい登山コースもできている。

この歌の背景には「火田民(山の斜面を火で焼き、畑を作って暮らした人々)」のつらい生活がある。조운파 は七甲山のもの悲しい雰囲気に触発されて、この歌を作るようになったという。

今ではなくなってしまったが、かつては平地が少ないので、山の斜面に焼畑として콩밭豆畑が作られた。それは地味もよくなく、厳しい労働の割にはそれほど収穫もなかっただろう。山で暮らすその人たちの暮らしは貧しいものだった。だから、若い娘も민며느리(ミンミョヌリ:将来嫁とするために小さい頃から夫となる家で育てられる娘)として家族を離れ、出て行くこともあった。

ある韓国人のブログには次のように書かれていた。「チュ・ビョンソンが歌ってヒットした「七甲山」は典型的な「恨」の歌だ。韓国人だけが感じることができる涙と諦めがメロディと歌詞のなかに 一言一言しみこんでいる。」

確かに、僕が最初にこの曲を聞いたとき、「홀어머니두고 시집가던날」(伴侶のいない母一人置いて 嫁に行く日)というと、年老いた母と大人になった女性を想像したが、嫁に行く女性が느리(ミンミョヌリ)だとすると、まだ子供だ。そうすると、홀어머といっても、何かの事情で独りになったとしても、それほど年老いてはいないと思われる。この歌が山で暮らす「火田民」を想って作られたものだという知識を得て、初めてよく理解できる。

また、「アリラン」の歌とも似たところがあるようだ。同じように愛しい人との別離の歌である。ただ、「アリラン」では峠を超えて出て行くニム(愛しいあなた)であるが、「七甲山」では、山を下っていく幼い娘である。

콩밭매는 아낙네야 베적삼이 흠뻑 젖는다 무슨설움 그리많아 포기마다 눈물 심누나 홀어머니 두고 시집가던날 칠갑산 산마루에 울어주던 산새소리만 어린가슴속을 태웠소

豆畑の草取りをする女よ 刈ることだけの暮らしに たっぷりつかっている どうして悲しさが それほど多く 株ごとに 涙を流す 伴侶のいない母一人置いて 嫁に行く日 七甲山の山里で 鳴いてくれた 山鳥の声だけが 幼い胸を焦がした

http://youtu.be/trgRQ5Zns00

http://youtu.be/Y0E3jiS9MUQ

ト マンナヨ

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본조아리랑 本調アリラン

ヨロブン アンニョンハセヨ
「아리랑 アリラン」は韓国・朝鮮を代表する歌の一つである。
ただし、「アリラン」と名のつく曲は韓国・朝鮮にはたくさんある。たとえば「진도아리랑 珍島アリラン」(全羅南道)、「밀양아리랑 密陽アリラン」(慶尚南道)、「정선아리랑 旌善アリラン」(江原道)などが代表的なものだが、朝鮮半島の各地には数多くの「○○アリラン」が存在し、それぞれ曲調も歌詞も少しずつ異なっているし、そのなかで最も古いものは「旌善アリラン」といわれるが、それでも各地のアリランがいつできたかもはっきりとはわからない。ただ、リフレインの部分で、「아리랑 アリラン」、「아라리요 アラリヨ」、「아리아리 アリアリ」、「쓰리쓰리 スリスリ」など、似た掛け声がはいっていることが共通している。それらの中で、現在最も広く知られた「アリラン」は「本調アリラン」と呼ばれている。日本でも学校の音楽教科書に載せられて、よく知られている「アリラン」は「本調アリラン」である。
この「本調アリラン」は、1926年に制作された無声映画「アリラン」の主題歌として作られたもので、最初は映画館の中で専属の楽団によって演奏され歌われたものが、後にレコードにも吹き込まれて、広く人々に知られるようになったものだ。それは映画「アリラン」の監督で主演俳優であった나운규 羅雲奎によって作詞され、「団成社音楽隊」によって編曲されたという説もある。
ソウルを中心とした京畿道には既に「경기아리랑 京畿アリラン」という民謡があったが、それを基にして作られたのが「本調アリラン」である。何時、誰によって作られたかがはっきりとしていて、マスメディアよって広められたこの「本調アリラン」は、前回お話した分類からすると「新民謡」といえる。「本調アリラン」という名前も、他の「○○アリラン」と区別する意味で後になって「本調アリラン」と名づけられたのである。
「○○アリラン」として地域ごとにその地域由来の固有の歌が、「本調アリラン」としてマスメディアを通して地域を越え、時間を超えて広がり、朝鮮民族全体の一つの歌となったのである。
日本ではあまり知られていないが、中国やロシア(ソ連など)外国へ移住した韓国人の間でも、それぞれの故郷のアリランを歌ったり、その地で新たに作詞した「海外同胞アリラン」も存在する。また、この「本調アリラン」はオリンピックなどスポーツの国際大会で、南北が統一チームとして讃歌した時には、国歌の代わりに演奏された。それだけに、この「本調アリラン」はどこに暮らしていようが、韓国人・朝鮮人としてのアイデンティティの象徴となっている。韓国政府は「アリラン」を2012年に世界文化遺産に登録することを目指すとともに、「アリラン」を『韓国の100のシンボル』に指定し、国を代表とするブランドのひとつとして、世界に広めようとする計画もある。 
そして興味深いことは多くの場面で、アリランという名称が使われていることである。韓国海外放送の名前、韓国の科学衛星の名前など韓国の威信を表すもの、そして有名な小説の題名となり、韓国文化を象徴するものから、ホテルや食堂など小さな個人商店の名前にまでいたるところに使われている。日本でも、韓国風を特徴づけるために、韓国食堂などには「アリラン」あるいは「アリラン峠」を付けたお店がたくさんあり、自由に使っているようだ。
それでは、「アリラン」という名称を、誰もが自由に伝っていてもいいかということになると、中国政府が吉林省に住む朝鮮族の伝統民謡として国家無形文化遺産に登録した時に、韓国ではそれに反発する人々の声が上がっていることから、場合によっては問題がなくはないようだ。
ところで、「アリラン」とは何かというと、アリランの関しては多くの本が出ており、アリラン研究者もいて、さまざまな考察をしているが、はっきりとした結論が出ているわけではない。 「本調アリラン」では、「私を捨てて行かれるあなた」のように、一番の歌詞では個人の生にとって、自分ではどうすることもできない出来事に対する悲しさや辛さが、韓国の「恨」という概念に結びついているようである。二番、三番の歌詞では必ずしも悲しさや諦めだけではなく、喜びや楽しみも描かれている。多くの「アリラン」には歌詞の内容も多様で、中にはエロティックなものもあるという。したがって、韓国人なら「アリラン」を理念としてではなく、情緒としてわかっているかもしれないが、外国人にはそれはなかなか理解できない謎ラビリンスである。
「アリラン」の歌でもう一つのキイワードとしての「アリラン峠を越えていく」の「峠」を考えてみよう。自分たちの住んでいるところを離れた隣の村には峠を越えていく。また村々のはずれ(うちから見れば出口であり、外からの場合は入り口でもある)には日本ならさしずめお地蔵様というところだが、「天下大将軍」「地下女将軍」とかかれたチャンスンが立てられていただろう。峠の向こうは未知の世界だったのである。
何もない普通の人の普通の暮らしなら、峠を越えて外に出て行くことはないが、何かのとき、例えば大災害や兵役や苦役そして外国の侵略など、それは外からの強い力によって、どうしても一生に一度や二度はこれまでの暮らしを捨てて、家族や親しい人と別れてその峠を越えて行かなければならない時もあり、またそれを耐えて見送らなければならない場合もあったのだろう。
日本で言えば、「追分」がある。「追分」という場所は、古くから交差、分岐するところという意味であるが、そこにも人々の別れ、旅立ちなどがあり、そこでの人々の喜怒哀楽が「追分節」という民謡になっているのではないだろうか。
アリランには歌詞が数え切れないほどあるので、そのなかの一つを紹介する。
아리랑 아리랑 아라리요 아리랑고개로 넘어간다 나를 버리고 가시는 님은 십리도 못 가서 발병난다
아리랑 아리랑 아라리요 아리랑 고개로 넘어간다 청천하늘엔 별도 많고 우리네 가슴엔 꿈도 많다 
아리랑 아리랑 아라리요 아리랑 고개로 넘어간다 저기 저 산이 백두산이라지 동지섣달에도 꽃만 핀다
アリランアリランアラリヨ アリラン峠を越えていく 私を捨てて行かれるあなたは 十里も行かずに足を痛める
アリランアリランアラリヨ アリラン峠を越えていく 満天の空には星も多く 私の胸には夢も多い
アリランアリランアラリヨ アリラン峠を越えていく あれあの山は白頭山 寒い冬でも花が咲く

参考として旌善アリラン、珍島アリラン、密陽アリランもリンクした。

ト マンナヨ

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노들강변  ノドゥル川辺

ヨロブン アンニョンハセヨ
 1920年代に出現した韓国大衆歌謡のなかに、これまで紹介した「流行歌」と並んで、「新民謡」というもう一つのジャンルが作られた。
「新民謡」といっても、はっきりと定義づけられるものではないが、その特徴として、
1.作詞者作曲者そして歌手の存在
2.音階、リズムなどは伝統的音楽に基礎
3.マスメディアを媒介
などをあげることができる。
 大衆社会が出現した時、技術革新とともに映画やレコードなどの複製芸術も登場した。そこで、音楽においてはこれまでの唱歌や讃美歌のように、ある特別の目的のために自分たちが歌った音楽から、専門的な音楽家による歌唱と演奏を聴く聴衆として、自分たちが楽しむ音楽へと代わった。そこでは、音楽家が身分ではなく、職業となり、音楽も一つの商品となったのである。
 そのコンテンツとして、人々に聞きやすくわかりやすいジャンルの中の一つとして、伝統音楽に基づいた「新民謡」が考えられたのである。「新民謡」には、自分の生まれ育った郷土の生活や自然への愛着や憧憬が現されている。
 日本では童謡の成立と前後して新しい音楽運動として、野口雨情、中山晋平らによる「新民謡」運動が出現しているが、それとは別の系譜として、ご当地ソングあるいはコマーシャルソングとして「ちゃっきり節」(北原白秋作詞、町田嘉章作曲1927年)や祇園小唄(長田幹彦作詞、佐々紅華作曲、1930年)そして東京音頭(西條八十作詞、中山晋平作曲、1933年、原曲は「丸の内音頭」1932年)などがつくられてもいる。
 「노들강변 ノドゥル川辺」(신불출 申不出作詞、문호월 文湖月作曲、박부용 朴芙蓉歌唱、1934年)はそのような韓国の「新民謡」の一つである。
 作詞した申不出(1905年-1976年?、開城生まれ)は、漫談家として人気を得ていた人物だ。作曲した文湖月(1905年-1949年、慶尚北道金泉生まれ)は日本に留学して独学で音楽を学び、韓国に帰って無声映画伴奏楽団員、京城放送局開局放送では伴奏楽団員そして1930年には「コリアジャズバンド」の団員となって音楽活動を行った経歴を持つ。文湖月は他にも有名な「陽山道」など新民謡だけを作曲した。
 この「ノドゥル川辺」は3拍子のゆったりしていていながら軽快ないかにも韓国らしい曲で、聞くのも楽しく踊りだしたくなるような歌だ。今でも人気があり、多くの歌手によって歌われている。ただ、韓国独特のリズムと節回しなので、日本人が歌ったり踊ったりするにはちょっと難しい歌でもあるようだ。
 ノドゥルとは、地名で現在のソウルの露梁津あたりの漢江べりあたりをさしている。かつては、渡場であっノドゥル漢江の流れと春風に吹かれてゆれる柳の情景を歌っている。おそらくそしの当時は、多くの人が川の流れの速さと一緒にゆっくりと行き来していたのに、今では、このあたりの漢江の川べりには、幅広い自動車道路が作られ、あまりにも早く過ぎ去り、また人々が川べりに近づくことができなくなってしまった。ただ、地下鉄9号線の駅の名前にノドゥルが残っているだけだ。
 
노들강변 봄버들 휘휘 늘어진 가지에다가 무정새월 한허리를 칭칭 동여서
매어나 볼까 에헤요 봄버들도 못 믿을 이로다 푸르른 저기 저 물반
흘러 를러서 가노라
노들강변 백사장 모래마다 밝은 자국 만고픙상 비바람에 몇 번이나 지나갔나
에헤요 백사장도 못 믿을 이로다 푸르른 저기 저 물반 흘러 흘러서 가노라
노들강변 푸른물 네가 무슨 망령으로 재자가인 아까운 몸 몇 번이나 데려갔나
에헤요 네가 진정 마음을 돌려서 이 세상 쌓인 한을 두등실 싣고서 가거라

ノドゥル川辺の春柳 ゆらり垂れた枝に 無情歳月の真中を 縛ってみようか エヘヨー 春柳も 信じられない 青いあの水ばかり 流れていくよ
ノドゥル川辺の白砂に はっきりとした跡 万古風霜 雨風に 何度も過ぎていった エヘヨー 白砂も 信じられない 青いあの水ばかり 流れていくよ
ノドゥル川辺の青い水 お前は おろかにも 才子佳人 惜しい体を 何度も連れて行った エヘヨー お前が本当の心を取り戻して この世に積もった恨を みんな乗せていけ 

ト マンナヨ

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사의 찬미 死の讃美

ヨロブン アンニョンハセヨ

 윤심덕 尹心悳ユン・シンドクの歌う「死の讃美」(1926年)には、興味深いエピソードが多い。
 その中でも、一番注目されることは、尹心悳が日本で「死の讃美」を吹き込み、韓国に帰る途中、愛人の김우진 金佑鎮キム・ウジンと玄界灘に身を投げ、心中した事件だ。
 尹心悳は日本の東京音楽学校で学んだソプラノ歌手で、クラシックだけではなく大衆音楽も歌った当時の有名な歌手で、金佑鎮は全羅南道の地主の息子で、日本にも留学した経験もある劇作家でもある。金は既に親の決めた女性と結婚していたので、尹心悳との関係はいわゆる不倫関係にあった。
 このことは当時の韓国の新聞にスキャンダルとして大々的に報道され、人々の関心を集め、その結果「死の讃美」が韓国における最初のヒット曲となり、このことによって、当時黎明期にあった韓国のレコード産業が基礎付けられたといわれる。
 もう一つ興味深いことは、尹心悳の歌唱は「おばあさんの讃美歌」程度ではなかったかという説だ。当時録音された音源が残されている。当時の録音技術や保存状態の問題もあるので、実際に彼女がどのような声を出したかということは正確にはわからないが、現在残されているものを聞くかぎり、確かに現代のクラシック歌手のものとはだいぶ違うようだ。どちらかといえば、歌い方は妓生出身の当時の新民謡の女性歌手と似ているところもある。
 確かに尹心悳は朝鮮総督府の推薦を得て、1920年から1923年まで東京音楽学校甲種師範科に3年間在籍し、卒業した経歴をもち、韓国の女性として最初のソプラノ歌手といわれている。しかし、現在の時点の評価は別にして、近代音楽を受容してまもない韓国においては、仮に尹心悳の歌唱が「おばあさんの讃美歌」程度であったとしても、驚くほどのことはない。
 ところで、この楽曲の原曲はイワノビッチ作曲の「ドナウ川の漣」で、作詞は不明となっていて、詳しいことはよくわからないが、それに尹心悳本人、あるいは金佑鎮が即興的に歌詞をつけたのではないかと考えられる。実際この曲の吹き込みは最初は予定されていなかったものだったようだ。
 これはまた、世界史的に1920年代の韓国という時代をよく表しているともいえる。
 第一次大戦後の時代思潮としては、集団レベルでは民族主義、社会主義などの思潮が出現したが、技術革新に伴う消費的で日常的な大衆社会も出現した。集団レベルでのとは別の個人レベルでは、人間主義、女性解放、消費文化としてはモダンボーイ、モダンガールなども出現している。それらが、被植民地韓国においても、西欧世界とほぼ同時期に出現している。
 この「死の讃美」の歌詞が意味するものは、少なくとも第一義的には、早くから親の意向によって配偶者が決められるというような、個人の意思を無視したこれまでの韓国における伝統的な家族観に対する反発でもあった。さらに、当時の植民地化された韓国の状況のなかで、なかなか自分たちの想いを実現できない人生や社会に対する韓国知識人の絶望感や苛立ちが虚無主義として現れているといえるだろう。
 当時の韓国人たちが、必ずしもこの歌の意味を十分に理解したとは思えないが、有名歌手と有名劇作家の心中事件というスキャンダルによって、「死の賛美」ブームを引き起こし、レコード産業の経営的基礎を固めたという点では、韓国における大衆社会の成立にとって象徴的なできごとといえる。
 この尹心悳の「死の讃美」はこれまで僕が探していても、なかなか見つからなかったものだが、YOU-TUBEで見ることができたのは幸運なことだ。
 ところで、この歌の歌詞にはいくつかのバージョンがある。「金も名誉も愛もみな嫌だ」という歌詞は、後になって作られたものである。真相は確かではないが、心中事件と考えれば、尹心悳と金佑鎮は少なくとも金や名誉はともかく「愛も嫌だ」とはいわなかっただろう。
 この歌は後に주현미チュ・ヒョンミなどのよって歌われている。
また、1991年には映画「死の讃美」が作られている。

광막한 광야에 달리는 인생아 너에 가는 곳 그 어데이냐
쓸쓸한 세상 험악한 고해에 너는 무엇을 찾으려 가느냐
눈물로 된 이 세상이 나 죽으면 고만 일까
행복 찾는 인생들아 너 찾는 것 설움
웃는 저 꽃과 우는 저 새들이 그 운명이 모두 다 같구나
삶에 열중한 가련한 인생아 너는 칼 우에 춤추는 자도다
눈물로 된 이 세상이 나 죽으면 고만 일까
행복 찾는 인생들아 너 찾는 것 설움
허영에 빠져 날 뛰는 인생아 너 속였음을 네가 아느냐
세상의 것은 너에게 허무니 너 죽은 후는 모두 다 없도다
눈물로 된 이 세상이 나 죽으면 고만 일까
행복 찾는 인생들아 너 찾는 것 설움
荒れた広野を 駆ける人生よ お前の行くところはどこなのか
寂しい世の中 険悪な苦海に お前は何を探そうと行くのか
涙となったこの世の中 私が死ねば それまでだ
幸福を探す人生よ お前の探すものは悲しさ
笑うあの花と鳴くあの鳥たち その運命は見な同じ
生に熱中した可哀想な人生よ お前は刃の上で踊りを踊るものだ
涙となったこの世の中 私が死ねば それまでだ
幸福を探す人生よ お前の探すものは悲しさ
虚栄におぼれ 暴れまわった人生よ お前の頼りなさを 私は知るか
世の中のものは お前には虚無で お前が死んだ後は何もかも無くなってしまう
涙となったこの世の中 私が死ねば それまでだ
幸福を探す人生よ お前の探すものは悲しさ

광막한 광야를 달리는 인생아 너는 무엇을 찾으러 왔느냐
이래도 한평생 저래도 한평생 돈도 명예도 사랑도 다 싫다
녹수청산은 변함이 없건만 우리 인생은 나날이 변한다
이래도 한평생 저래도 한평생 돈도 명예도 사랑도 다 싫다
荒れた広野を 駆ける人生よ どこを目指していくのか
これも人生 あれも人生 金も名誉も愛も皆嫌だ
緑水青山は変わらないが 私の人生は日毎と変わる
これも人生 あれも人生 金も名誉も愛も皆嫌だ
微笑む花と鳴く鳥 その運命は皆同じ
生に燃える可憐な人生よ それは刃に踊る者
虚栄に陥り踊る人生よ その心をだれが知る
この世はお前に空しい 死んだ後はこの世はない

ト マンナヨ

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